「人は何のために生まれてくるのか」2026年3月11日
「人は何のために生まれてくるのか」、それはこの世に生を受けたすべての人が人生で解き明かさなければならない最も重い命題のひとつかもしれません。
私はかなり早い時期からその答えを総体として知っていたのですが、言葉にするのに何十年もかかりました。私はこう思っています。「人は愛されるために生まれてきたのだ」と。
なんだその甘ったれた宗教者みたいな世界観は、という批判もあると思いますが、その前提で物事を考えると意外と腑に落ちることも多いのですよ。
この説で言うと、新たな命として誕生した赤ちゃんは、無条件で全能の神のように愛され、手厚く保護され、成長していくことでしょう(不幸な例外は排除するとして)。
ところがですね、お腹がすいた、眠い、おむつが濡れた、というたびにオギャーと泣けば家臣がひざまずいてお世話をしてくれた時期を過ぎると、赤ちゃんもそのままの存在で居心地が良いというわけにはいかなくなってきます。
つまり体が大きくなるとともに、お座りしなきゃいけなくなるし、ハイハイしなきゃ心配されるし、立っちしないと喜ばれないし、というふうに親や周囲の期待に応えることを求められてくるわけです。知育も同じです。
「ありのままの私を愛してくれなきゃいやだ」なんて甘えが通じなくなってくるのですよ。つまり、親や周囲に愛されるために、さまざまなクリアすべき条件がどんどん増えてくるわけですね。親の心配事としては身体の発育とともに知育の発達が標準値の範囲内にあるどころか、標準値を上回っていないと不安だ、という過剰な期待までおっかぶせられることもありますから。
「僕はただ愛されたくて生まれてきただけなのに、こんなのないよ!」なんて嘆きが聞こえてきそうですが、人生の真実って身も蓋もないものですからね。人は愛されるために努力をしなければならないのです。
おまけに家の外に出るようになると、そこは「社会」ですからね、周囲の社会にとけこめるように、きちんとしなけりゃいけないわけです。
赤ちゃんが泣いてるならば周囲の大人も大目に見てくれるかもしれませんが(そうは言っても、帰省なら仕方ないでしょうが、飛行機に赤ちゃんを乗せて旅行する夫婦の神経は理解できませんけれど。なんで今ハワイに行かなきゃいけないんですか、とりあえず親は寝てるんじゃなく赤ちゃんを泣き止ませてください、って感じです)、まして言えばわかる分別がついているはずの2歳児以降の幼児が公共の場で(家を一歩出たらそこはすべて公共の場です。少なくとも自宅の中では絶対にありません)奇声を上げて走り回っているような狼藉は目に余ります。と言うよりも子どもがかわいそう。そんなパカな親に育てられて、と私は思います。
これはですね、その子の親自身が、その親に真っ当な教育を受けて来なかった=しつけをされてこなかった、と理由に尽きるかもしれません。
「ほめて育てる」という子育てが一世を風靡した時期がありましたが、誤解して子どもを「叱らない子育て」できてしまった世代がありますからね。分別のまだつかない幼児の人格など、認める限度があります。叱ってでも教えなければならないのが親の義務です。
昔の人は言いました「親が馬鹿だと三代祟る」と。今、目の前の幼児や子どもの教育が行き届いていないのはその親の責任である。そしてその親を育てたそのまた親(祖父母)が至らなかったせいであると。これを慧眼と言い箴言と呼びます。
まったく私がダメないたずら坊主のままなのも私の祖母が原因です、なんて私が責任を転嫁しちゃダメなんですね。自己責任って重い自由ですよ。



















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