「人は前世で強く願った人生を生きている」。これは私の仮説です。2017年5月10日
「人は前世で強く願った人生を生きている」。これは私の仮説です。なにか宗教的な哲学を考察しての結論や長い間熟考していたことではなく、ふと天から降りてきたシンプルな想いを言葉にまとめたものです。
視点を過去の前世に合わせるのでなく、今現在の現世から考えるなら、現世の自分が、自らにないものを切望し、生まれ替わったらこうなりたい、と強く願った姿が来世で実現する、という仮説です。
自分が今もっているものは、前世の人がもっていなくて神さまに望んだものではないか?
「もの」とは、才能かもしれません。容貌かもしれません。経済力かもしれません。性別かもしれません。性格かもしれません。
前世で自己のコンプレックスに苦しんだ自分が、来世ではこう生まれたい、こういう人生を歩みたいと思い描いた夢が現生でかなっている。
具体的な例で表現するならこうです。
「ブサ男で悲しい思いをした前世だったが、来世では是非と願った結果、今生ではイケメンに生まれてきた!」とか
「前世では経済的苦境に苦しい思いをしたが、今生では金運に恵まれ、お金に困る思いをせずに暮らしている!」とか
「前世で自己の努力不足、あるいは経済的理由からじゅうぶんな学歴を得られなかったが、生まれ替わった今生では、人から羨望のまなざしを集めるような学歴を持てた!」といったことです。
さらに具体例を挙げましょう。
「前世では優柔不断で決定が遅く、そもそも意欲にも恵まれなかった。でも生まれ変わった今は、意思決定と行動が早く、まわりから一目置かれる存在となった!」とかね。
そんな現実は却って実感が持てません、という方にはこんな例はどうでしょう。
「前世では味覚オンチで下戸だった。だから現世ではグルメで美酒の味わいに精通できるようになった」。
私が独断で立てた仮説は自然とこうつながります。前世で「生まれ変わったらこうなりたい」という願いが実現して今、自分はここにいるのだ! ということです。ですから、なにを置いてもそのことを感謝しないと。
そうは言っても、完璧な人生を歩んでいるような自覚を持った自分に、そうそうはなれないのはなぜか? 代が替われば前世より素晴らしい条件が整い、より素晴らしい自分が実現するはずではないか? ところが現生の自分は欠点だらけの欠陥人間ではないのか?
私もそのように思いますし、なかなか自らの目標が達成することもないのはなぜなのか? 日暮れて道遠しとの思いが果てないのはなぜか?
それはね、こういうことではないでしょうか。前世の自分は、自分がその時にもっていた才能や能力や特別な力にじゅうぶんな感謝をせず、あるいは気づかず、活かし切れていなかったのではないでしょうか?
または、生まれ替わった次の代でも今もっている力は、あたりまえに引き継がれると思いこんでしまうからではないでしょうか。
だから忘れる。神さまにお願いするのを忘れる。次の代でも今の自分がもつ才能や力はそのまま継続してお与えください、とお願いするのを忘れる。自分が今、すでに持っていることへの感謝を忘れるからです。つづく