願書の山に囲まれ、「ああ、こんな私でもお役に立てることがあって、ありがたいなぁ」と実感します。2016年9月21日
願書の山に囲まれ、「ああ、こんな私でもお役に立てることがあって、ありがたいなぁ」と実感します。今は小学校入試願書の添削が忙しさを極める時期です。
ほとんどの願書は会員のお母さまが、努力の限りを尽くして書いていらっしゃいます。それこそ期日に間に合わせるために寝る間を惜しんで書き上げた努力の結晶です。これをあだや疎かに扱うわけにはいきません。
なにしろ願書は合否ボーダー時の明暗を分けるものです。
慶応会のある教室にルオーの版画が架けられています。絵は農夫と向かい合うキリストが描かれています。聖書のどのエピソードが描かれているのか、不勉強な私にはわかりかねます。しかし、ルオー独特の筆致の力強さに魅かれ、私はこの絵を眺めています。農夫は力強く胸を張ったように見えます。一抱えの麦でしょうか、胸に抱えた農作物をキリストに渡そうとしているところのようです。キリストはこうべを垂れているのでしょうか、農夫から今年の収穫を受け取ろうとしているところでしょうか?キリストは神々しい存在というより、謙虚な宗教者といった印象を与える絵です。まったく私の解釈違いかもしれませんが、私の心はそのように受け止めました。それは私自身の自戒にもつながっています。
私は受験という狭い領域のある分野において知識と知恵と経験があります。それをみなさまにお伝えするのが仕事です。そこで独善的になったり、排他的な考えを持ったりしてはいけないといつも考えています。
9月15日が願書の受け付け締め切り日と一応なっていますが、9月16日に出社した私の机に9月14日以前に受け付けた願書の数倍!の量の願書が置かれていて、私は仰天しました。ものすごい数です。(そういえば毎年こういう感じでしたね)
見ると9月15日の23:55にファクスで送付されたものもありました。送り状には「理事長先生、申し訳ありません。一生懸命書き直していますが、推敲が間に合いません。(涙)背伸びをしても事務室まで手が届かないので、とりあえず、先にファックスさせていただきます。原本は明日お持ちします。ごめんなさーい」とあり、笑ってしまいました。
願書の山に囲まれ、手を付けれども添削がはかどらず、「あれ、この文章は意味が通じないと思ったら、書き出しの主語は『学校』だけれど、句点で区切った後半の主語は『親』に変化してるぞ? 文字制限があるから、別々の長文をぶった切って無理やりつなげたな」といった文章が時折交じり、私の頭の中も文章の文意と文脈の整理で混沌としてきます。
また、「わが子への期待は親心としてわかるけれど、わが子の成長への期待を、あれもこれもと学校に押し付けるようでは学校に敬遠されそうだな、言い回しを変えないと」とか、「志願理由を書く欄なのに、わが子の様子や達成や成長ぶりのアピールが過度だな。学校の校是とつながるように書き直さないと、このままでは『Viva わが子!』の親馬鹿と誤解されてしまうな」とか、内容そのものに大幅に筆を入れないと通らない願書も混じります。
どの願書にも親の愛情が満ち溢れていますから、上手に発酵させる技を仕込むのが私の仕事です。酒蔵の杜氏のようですね。
それでも私は感謝の念が尽きません。願書の山の頂を眺めながら、私自身がすごくありがたいと感じます。「神さま、私などが人さまのお役に立てることがあって、本当にありがたいです。ありがとうございます」といつも空を仰いでいます。仕事を通してお役に立てることが実感できるなんて、まことに幸せな人生です。
これぞ、わがRock & Roll!