アメリカが今、コロナウイルス以外の要因で揺れていますね。2020年6月17日
アメリカが今、コロナウイルス以外の要因で揺れていますね。発端はミネソタ州で白人警官の暴行により黒人男性が死亡した事件です。根強い人種差別から生じる不満が、コロナを機に全米で爆発したもようです。ここまでは社会問題ですね。じゅうぶんな論議が必要でしょう。
ところで、その問題に連座して、映画「風と共に去りぬ」を配信中止にした、というニュースが入ってきました。私は全く釈然としません。映画の一部表現に黒人差別を助長するものがある、という理由のようです。原文の表現に当たっていないので、どこがどう差別的なのか検証しておりませんが。検証する気にもならないほどがっかりしています。映画は1939年に作られて、アカデミー賞まで受賞し、しかも問題となっているメイド役の黒人女性ハティ・マクダニエルは助演女優賞まで受賞しているのです(それも黒人初の受賞)。私が言うまでもなく名作中の名作です、80年も前の。80年前の時代背景にあった価値観を今の基準で断罪して配信中止とは、あまりに狭量。
私はむしろ改めて、1939年当時の日本軍部の重鎮が、この映画を見ていなかったことに深い失望を覚えます。見てさえいたら、その後に起こした暴挙がいかに無謀であったか、深謀遠慮したことでしょう。
ジェンダーの問題も日に日に増してきます。ハリーポッターの著者J.K.ローリングと俳優のダニエル・ラドクリフの間で交わされたツイッター上のやりとりについて、私は途中でわけがわからなくなりました。
私はこう思っています。人間というものは、しょせん厄介な存在です。多面的な存在であり、外に向けた自分と内なる自分との乖離に常に齟齬を感じながら、ようやく折り合いをつけて生きているものだと思います。
ジェンダーの問題は特にそうです。私の娘は、タレントのりんごちゃんは女性だと思っています。りんごちゃんは戸籍では男性でしょう。内面は女性でしょう。でも男性的な面もあるでしょう。ひとことの単語のくくりでは言い表せないでしょう。私はりんごちゃんはりんごちゃんだと思います。そこに線引きが必要とは思いません。
それらはいわば、「個」です。男でも女でもなく、その属性が必要ではなく、個だと思います。私も個、あなたも個、みんながそれぞれの個。性格もみな違って、好みも考えも違って、それぞれが独立した個。
ジェンダーに問題を抱える人は特に、他人が自分をどのようにカテゴライズするかに過敏になっていませんか? 自分は独立した個の存在。だれにも脅かされるものではない。それがわかっていればそれでいいじゃないか、と私は思います。ところが自分という存在を、ありのままに公的に認めてもらおうとする社会的な動きが強くなり、難儀なものだと感じています。一部の法律を改定するための運動だということもわかります。その必要性も理解しています。社会的移行には理解されることが必要ですよね。やんわりとした主張では社会は変わらないものでしょうか? 人種差別の問題解決への道も同じ。強硬の代わりに粘り強さを発揮するとかね。
最近、本当に最近の数年は世の中がどうにもならないほど閉塞しています。すぐに何か事が起きると謝罪会見があり、活動自粛といった動きになる一方、日本国の頭とも言うべき人は、責任は自分にあると言いながら、なんら責任を取らずにのうのうと詭弁を弄して国民をはぐらかし続けているように見えます。
いっその事、こう宣言してはどうでしょうか? 「私は日本国を先導するには能力の足らない者であるかもしれません。しかしながら私には志があります。任期を全うする所存でおります。私が現職に留まる理由はたったひとつ。私の周りにいる他の誰もが、私よりも遥かに足らぬ能力しか有しないからであります」と、肚をくくって来られたら、わかりました、と申さざるを得ません。立派な決意に敬意を表します。
私はそこにある大事な精神を教えていただきました。私も、我と我が身を三省し、ここに宣言します。
「私は、幼い子ども達に歩む道を照らし、親に教えを説く者です。しかしながらわが身を省みるに、特にわが身の徳において、その資質に懐疑を抱かざるを得ません。誰よりも多くの失敗を重ね、その度に頭を下げ、陳謝し、言動を改めて参りました。しかし、未だにその徳の至らなさに、『日暮れて道遠し』と、嘆息せずにいられません。私は自らの足元に躓きながらも、私に続く人が同じ跌を踏まぬように導かんとする者です。そして私は今後も降りかかる試練とともに歩み、その道を照らしてくれる天上の大きな存在に感謝し、光の指す方へ自らの歩みを進め、後に続く人々を導く所存でおります」
ああ、なんとなく生きる勇気が湧いてきます。冷や汗をかきそうな理由は、汗と勇気は一緒に湧くものだからですね。