小学校や幼稚園で「プールに入りたくない」と子どもが言えば、・・・2019年8月21日
小学校や幼稚園で「プールに入りたくない」と子どもが言えば、「だいじょうぶ。みんなも一緒だから。苦手なことも克服してみようよ」と先生に手を引かれ、いやいやながらもプールに入って友だちとあそぶうちに水が怖くなくなり、泳ぐ技術も徐々に身についてくる、というのが学校教育における水泳指導ではないでしょうか?
プールに入りたくない子がどういう理由で入りたくないのか? その理由ぐらいは担任の先生は把握して、適切に子どもに働きかけなければいけないでしょう。「プールに入るのが決まりだ。入りなさい」という指導なら、それは職務怠慢です。
給食の完食指導もひと頃よりは強制的ではないですが、教室で昼休みの間中、残りのおかずと格闘する子はいます。アレルギーを別にすれば好き嫌いのことを子どもは言っているわけです。家庭でのお母さんの味とは違い、幼い子の味覚に合わないものだって少なくはないでしょう。でも、無理して食べなくちゃいけないことは教師のいじめでしょうか? 未経験のものに慣れる訓練は学校教育の一環のように私は考えるのですが。時間がかかっても、不慣れや不得意なものを克服していく訓練をするのは、私は大事な教育の側面だと考えています。
ただし、その際に大事なのは、教師の子どもへの言葉がけや態度です。前述の通り、子どもの気持ちを考えることは教師にとって必要不可欠なことですし、なぜ? という問いかけが子どもの心を開く言葉がけであることが大事です、子どものことをよくわかった上でかける言葉と、教師の都合でかける言葉では、言葉の持つ温度がまったく違います。
東郷平八郎提督は(山本五十六だという説もあり)部下の海軍士官を指導する時に「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、ほめてやらねば人は動かじ」と言っております。太平洋に冠たる日本帝国海軍の、海軍士官学校の入試を突破して士官となった文武両道に長けた若者を指導するにしても、その上官はかくも気を使っていたわけですね。
正直、その指導力を、全国津々浦々の先生に問うには、先生の荷が重すぎるように思います。もっと言うならば、あんまり担任の先生には期待しない方がいいかもしれません。そんな素晴らしい人間力を持った先生なんて、そうそういるものじゃないでしょう。
話を戻します。この世には「弱い子」が数多くいます。「強い子」も少なくはありません。その「中間の子」はもっといます。一列に並んで歩いて進むとき、速く歩く子は、遅く歩く子のことをおもんばからないといけませんね。でも、遅く歩く子も、意識して遅れをとらないように努力しなければなりませんね。問題は遅く歩く子が、どうしても速度を上げられない場合です。速く歩ける子と、速く歩こうと思えば歩ける子は、どんなときでも遅くしか歩けない子をずっと待っていなければならないでしょうか? 全体のレベルを下げることが人類や社会や美徳の発展につながるでしょうか? 強い人が弱い子を優しく引っ張っていくことに期待しすぎていることはないでしょうか?
遅い人、弱い人、少数の人、これらの人たちが共通して苦しんでいる理由は、理解されないことです。人に自分をわかってもらえずに苦しんでいます。「強きが弱きを助く」これは美しい精神と行動です。反論はありません。強い人は弱い人、少数の人と同じほどの数しかいないかもしれません。でも大多数はその中間にいて、だれにも手を差し伸べられることもなく、自力で奮闘している人であろうと思います。自助努力は常に尊い。