ねたみやそねみを漢字で書くと妬み、嫉みになり、女へんがつき、女性蔑視の偏見が溢れていそうな感じですが、もちろん女性特有のものではありません。2017年8月30日
ねたみやそねみを漢字で書くと妬み、嫉みになり、女へんがつき、女性蔑視の偏見が溢れていそうな感じですが、もちろん女性特有のものではありません。むしろ男の嫉妬のほうがたちの悪い場合もありそうです。妬みや嫉みが募ると恨みに発展するでしょう。人の怨恨は本当に恐ろしいものです。
程度の差こそあれ、人は他人が気になるものです。いくら我欲が強くなく、普段はのんびりと過ごしている人であっても、自分が心の底で欲しいと願うものをすでに持っている人の姿が隣に見えたら、心が平静なままではいられなくはないでしょうか。
隣人が、その「もの」をすでに持っていることを知らなければ、心を乱されることもないのに、知ってしまったら平静ではいられないとは、実に起こりそうなことです。まして隣人がその「もの」を持っていることを自慢したり、ひけらかしたりしようものなら・・・。怨嗟の感情は、条件次第でだれにでも湧き得るものです。程度の差こそあれ、我欲を超越し達観できるほど人が強いとは、私は思っていません。
他人がより多く持つこと、より恵まれること、もっと言うならば、人が自分よりも高い位置にいると不安を覚えることが多いようです。その反対に、人が自分よりも低く弱い位置にいると安心するのでしょうか?社会は絶えず相対的関係を監視する場でしょうか?そんなことを考えると、自己嫌悪に陥りそうです。
欲望というこの世の媚薬は、良く使えば効能を発揮し、悪く使えば自らの精神に荒廃をきたす、というのは万能な注意書きではないでしょうか。
自らを奮い立たせる秘訣は、人それぞれの深い場所に匿われたところから発するのではないですか?それはコンプレックスをバネにすることもあるだろうし、名声欲や出世欲に突き動かされることもあるだろうし、欲しいものを手に入れるために金を稼ぐためということもあるだろうし、異性に認められたい自己顕示欲が過剰に反応することもあるかもしれません。
人の我欲は人により異なるのだから、誰かにとっての善は別の人にとっての悪であるかもしれません。ですから人の我欲には客観的中立はなく、それぞれの価値観に公正な評価はなく、言わばグレーゾーンにあるかもしれません。
どれが健全でどれが不健全で、どれが建設的でどれが非建設的で、どれが推奨できる生き方でどれが回避すべき生き方であるかなど、他人に干渉されるなんて、だれもがまっぴら御免ではありませんか?
だれがベンツに乗っているとか、あちらはセレブリティでどちらにお住まいであるとか、どこの家の子が某私立小学校に通っているとか(それが仮に、強力な縁故なしには入学が叶わなかったようなレベルの子であったとしても)、他人が口を挟みすぎではありませんか? 傍観者や野次馬が、人の人生を評価するなど、大きなお世話でしょう。人の生き方を批判するほどの聖人がこの世に多いとも思えません。
人の嗜好はその人のものであり、その人に任せるべきことですね。品位についての論評だって大きなお世話です。もちろん満たす欲求が法的に悪であってはならないですが。
人を妬んで攻撃する人が一番卑しい、と私は思っているのですが、私がそう考えること自体が前文と矛盾していますね。
人という複雑な存在が、心の健康を保持する最も有効な方法は「隣の芝生に関心を持たないこと」ではないかと仮説を立ててみます。私自身は、自らの弱さを自覚しつつ、信念に沿った生き方を貫こうと決意しています。